とても悲しい気持ちなのにうまく説明できない。そんなことってない?あるいは子どもの頃、どうしても説明できなかった感情。
今なら言葉にできそうな気がする。
例えば、お皿に描かれたラスカルの絵。クリスマスツリーの下でプレゼントを開けて、ラスカルがクッキーをかじっている。
誰かが落として割ったりしていなければ、実家の戸棚にまだその皿があるはずだ。10年以上は使っているんじゃないかな。私が小さかった時からある。赤毛のアンやフランダースの犬のお皿と一緒にセットになっていて、なにかの贈り物でもらったのかもしれない。いくつかある普段使いの皿の中で、ラスカルが私のお気に入りだった。
実を言うと、私は「アライグマのラスカル」のストーリーを知らなかった。フランダースの犬ならテレビで見たことがある。ネロとパトラッシュの体を天使が空へと運んでいくシーンが記憶にある。それも泣ける話だよね。でもラスカルは映画で見たことも本で読んだこともないのに、一枚の皿の絵だけで悲しくなってしまうのだ。
なぜだろう。とっくりお皿を眺めながら、一度ならず考えてみたことがある。
幸せそうにクッキーを頬張るアライグマ。ツリーの下に積み上げられたプレゼントの山。
おかしいよね。ラスカル自身が幸せなら素晴らしいことじゃないか。悲しむべき理由はどこにもない。
ひょっとして、映画のストーリーが絵に現れ出て、知らず知らずのうちに私を感涙させているんじゃないかと疑いはじめた(そんなことがあるものか)。で、DVDを借りてきた。それこそ目を皿のようにして見てみたのだけれど、ラスカルがクリスマスツリーの下でこっそりクッキーをかじる場面はなかった。角砂糖を壺からつまんでいるだけで…。映画の感動シーンと皿の絵は、まあ、あまり関係ない。
クリスマスなのにひとりで幸せそうにしている絵の中のラスカルは、いつも悲しいくらいにかわいかった。
ラスカルの皿が私にとって目薬のような効果を持ち始めてから何年も経過したある日、今度は別の絵本に出会う。そしてまた原因不明の涙が溢れてくるのだった。
ある犬の一生を描いた物語だ。真っ白な子犬が飼い主さんと出会い、成長して恋人、じゃない、恋犬ができ、最後に虹の橋を渡る。
私はその飼い主さんを知っている。絵本の中では少女漫画みたいに美化されているのだけど、実際にご本人に会ってみればとてもとても心優しい方だとわかる。彼女のパートナーである、絵本の主人公も実在した。残念ながら私は一度も会えなかったのだけれど、いつも話に聞いていた。
「後ろ足で立ち上がると、私の肩に前足が届くよ」
「大型犬だから年取って病気になると介護が大変」
「ロイくんっていう彼氏がいたんだけどね、病気で先に亡くなってしまったの」
このあたりからもう涙が…。飼い主さんから大切にされて、幸せな一生を送ったんじゃないかなと思うよ。だから何も悲しむことはないのに。何が悲しいんだろうね、本当に。どうも私は他人の幸せを悲しむ心を持っているのかもしれない。
それからまた、今度は映画を見て涙が止まらなかった。「Life Is Beautiful」。ユダヤ人が主人公の映画。前半は明るいラブストーリー。だんだんナチスドイツの迫害の影が忍び寄り、ついには家族ともども収容所に送られる。それでも最後まで明るい。
これは泣ける話なので、ちゃんと理由があって悲しくなるものだ。「これはゲームだ」というお父さんの言葉を息子は信じ続けている。それが泣けてしまうのだよね。その悲しさはさっきの、犬の絵本に似ていなくもない。
たぶん、主人公の犬は恋人のロイくんが死んでしまったということを、理解しなかったのだろうと私は想像する。「ロイくんは死んじゃったんだよ」と話して聞かせても、犬は言葉をわからないからね。いま天国で再会できていたらいいなあと思うんだ。
ラスカルもきっと同じだ。絵の中の幸せは、現実ではない偽物で、その中にいるラスカルは自分が幸せでいることを疑わない。実際はただの絵でしかないのだけど。
そんな風にして子どもの頃の私はよく、勝手に悲しい物語を作り出しては、悲しくないことを泣いていた。