補聴器のスイッチを入れると、雨の音がしていることに気づいた。パラパラパラ。
昨夜は虫の声が賑やかであった。どんな音だったか明るくなった今、思い出そうとしてもはっきりと擬音語にできない。
パラパラパラ。テントの屋根を雨が打つ音ばかりが途切れることなく続く。
外に出ると思ったほど雨足は強くなかった。傘がなくても散歩ができそうな小雨だ。降っているのか、それとも漂っているのかわからない水滴の間をすり抜けるように歩いた。やわらかな砂に靴がめり込む。
やがて海が見えて来た。波が荒い。打ち寄せる音も聞こえる。ぐるぐるとめくれるブルーグリーンの色を見つめていると、無性に絵に描きたい気持ちになった。この一瞬をどうにかして留めて置けないかと。
白い灯台の前で写真を撮った。
私に、絵に描いて欲しいと写真を送ってくれた人がいた。この灯台に違いない。どこで撮ったものかは聞かなかったけれど、風見鶏のついた屋根も2段になった小さな窓も、そっくり同じ形をしている。
でもその写真には海が写っていない。傘を持った男の姿も。私が描きたいのはそれなのに。
車に戻ると運転を再開した。どうかな、私の運転はうまくなってきたのではないだろうか。交差点で曲がらなければいけないたびにタイミングを間違えていた、初めの頃に比べたら、なかなか。カーブのきつい山道だってコツを掴めてきた。
My bike.
運転している時は黙っていたいものだと思う。でも隣の人は私の意向にお構いなく話しかけてくる。
My bike.
また。しょうがないので聞き返す。
Really? Is that your bike?
No.
なんだよ。って感じ。全く意味のない、不毛な英会話。それを私たちは、窓の外にロードバイクを見かけるたびに繰り返した。
そうやって書くとまるで馬鹿の一つ覚えみたいだよね。後になって私はちゃんと意味のある言葉だったと知ることになる。言葉で伝える手段がない時、ただの単語はこんなにも愛おしくなるものかと思う。
耳鳴りは常にある。それは虫の声にも聞こえるし、絶えず形を変える炎のようでもある。波の音が、ほどけてほどけて残った、細い糸の揺れのようにも聞こえる。
何も音がしないように思える時でさえ、私の耳の奥では鳴っている。自分の聴力以上に音を聞こうとした代償なのかもしれない。実際にはない、私の脳内で勝手に作り出された音なのだろうと思っていた。
この間、「内耳が音を作り出す」ということを知ったんだよね。耳音響放射といって、雑音に埋もれてしまうようなわずかな音だ。外から入って来た音刺激に反応して放射されるものと、音刺激がないのにも関わらず蝸牛から自発的に放射されるものがある。
しかしながら、テキストを見るとこう書いてある。
「(誘発耳音響放射は)各種感音難聴で抑制や消失されることが報告されている」
「耳鳴との関連についてよく研究されているが、SOAE(自発耳音響放射)に関連する耳鳴は全耳鳴症例の10%以下であるといわれている」
耳鳴りは、どこで鳴っているのだろう。
私は自分の脳波を想像する。いろんな音が補聴器を通して私の耳にこだまする。雑音と、そうでないものに対して描く波の高さの差を考える。
海岸に打ち寄せる波と、隣のいびき。
すぐそばで息をする虫の声と、テントに反響する雨の音。
スピーカーから聞こえるざらついた会話、カタコトながら成立する英会話。
どれもこれもスイッチを切ってしまえば、なかったことになるのだと思いながら。しんとした世界で、耳鳴りだけが消えずに残る。