人生は、挑戦の連続だ。
テニス部も、ロシア語も、留学も、コンビニのバイトも、教員も、なんでもやってみたかった。
中学生の時の引っ込み思案な性格の反動で、そこからどんどん積極的に行動するようになったのかもしれない。自分を変えたかった。克服したかった。話せるようになりたかった。障害なんかに負けたくない。ずっと戦っていたのだと思う。
限界にぶつかった。
疲れた。もう頑張れない。
でも諦めたくない。負けを認めたら自分が自分でなくなってしまう…!
それくらい思い詰めていた。何かおかしくなっていた。
社会は甘くないとわかった。
なぜこんなに厳しくしないといけないのか。そこで暮らす一人一人のために、社会は存在しているのではないのか。
社会のために個人が合わせなくてはならないのは、息苦しくて仕方ない。それでも、お互いに譲り合うことはまだできるのではないかと思った。
現実は、たぶんどこにも余裕がないのだろう。少なくとも、学校には余裕がない。
「社会が、学校が、誰でも自分らしくいられる場所になってほしい」
心からそう思うのに、そこまで頑張れなかった。
いろんな人がいろんな理由で苦しんでいる。私には耐えられなかった。救いようがないと感じた。
無理してまで手の届かないような高みを目指すのではなくて、少しずつできるところから広げていくという選択肢だってあったはずだ。賢い人なら後者を選ぶのだろう。
今でこそ落ち着いてものを考えられるけれど、本当に苦しい時は逃げることさえ考えられない。
本当は、どうしたかったの?
「聞こえなくても自分らしく生きたい、働きたい」
「自分らしく」とは、どういうことか。改めて問い直す。
聞こえないことだけではなくて、ごはんを作ることとか生活リズムとか、得意・苦手、好き・嫌い、我慢できること・できないこと、自分でも呆れるくらいの頑固さ、今まで経験してきたこと。どれもこれも全部ひっくるめて「私」なのだと思う。
人見知りで臆病だった昔の性格は、いまだ直らない。教員に私は向いていなかった。一方で、意外と負けず嫌いなのだと気づいた。こんなに泣いているのは悔しいからだ。
悩んでいる暇があるのなら次に進もう。「できなかったこと」よりも、「まだやっていないこと」の方がはるかにたくさんある。
選んだことに後悔なんてしない。何事もやってみなければわからないよ。
また少し大人になれた気がする。夢とか全て諦めて疲れてしまった大人でなくて、挫折も受け入れられるくらいもっと大人になりたい。