気が緩むと、思い出したように左の膝がうずく。いつもは忘れている痛み。
耳が聞こえないことは事前にメールで伝えてあった。実際に言葉を交わしてみると、相手の緊張が伝わってきた。
いや、緊張しているのは私の方だったかもしれない。びゅうびゅう吹き荒ぶ風の中を歩いてくる間に、体がすっかり縮こまっていた。
院長先生はにこにこしすぎな笑顔だったけど、でも全然嫌な感じはしない。感じの良い人見知りだった。
靴を脱いで上がると、マッサージ台が2つ並んでいた。私が入ると同時にやってきた年配の男性がそのひとつに寝転んだ。常連さんなのだと思う。
もうひとりいる先生がすぐに施術にかかった。
院長先生は、「マッサージは初めてですか?」と尋ねた。
はい、と私は答えた。「家族にマッサージをお願いしたけど下手すぎるので、プロの人にやってもらいたいと思って来ました」
ひどいんですよ、本当に。パン生地か餅でもこねるみたいに人の背中を押しつぶしにかかるんだもの。
「ガチガチですね」
「ガチガチですか」
わかりますか!プロのマッサージはやっぱり違う。
うっかりすると涙が出そうだった。
痛いからではない。気が緩むせいだ。いつもいつも気を張って生きていたんだなあ。
「頭は痛くなったりしますか」
背中から声が降ってくる感覚がなんだか新鮮だった。普段なら後ろから声をかけられるのは苦手なはずなのに。
声というよりも、背中に触れている指を通してじんわりと言葉が染み入ってくるみたい。
返す言葉も、頭から背中、背中から頭、頭から喉へ、いつもよりうんと時間をかけて運ばれていった。
「頭痛は
ありません。
でも
耳鳴りがしています。
ずっと」
頭もマッサージしてくれた。首の強張りは頭とも繋がっているのだそう。
大きな手だ。私の頭なんて、簡単に握り潰してしまいそうだ。神様みたいな手。
うつ伏せ。
仰向け。
座って腕を伸ばすストレッチ。
全て終わった後でもう一度、肩をマッサージしてもらうと、違いは歴然としていた。
「ほら、さっきより柔らかくなりましたよ」
私は嬉しくなる。
肩を回すとずいぶん軽くなっていた。さっきはレンガでも乗っていたのか。春先のたんぽぽの茎みたいに首が伸びる。
「いつも同じ姿勢で過ごすことは多いですか?」
「そうですね。本を読んでいる時とか」
最近の私は何もしていない。本を読むか、家事をするか、散歩をするか、そのどれかだ。
ただ生きているだけで肩は凝る。姿勢が悪いのだろうか。
肩が凝らない姿勢を教えてもらった。両腕を体の両脇で下ろして、手のひらを外側に向ける。背中では肩甲骨が広がる。丸まっていた背骨が伸びる。
他には、肩回しをするといいよと教えてもらった。ぐるぐる。肘で円を描くように。よーし!毎日うちでやるぞと思っていたら、「やりすぎはダメですよ」と釘を刺された。
家に帰って、猛烈にお腹が空いていることに気づいた。
夕食を作る。キムチ豆乳鍋とナスとカニカマの生春巻き。デザートは、昼間作っておいたりんごタルト。
いつもの10倍くらい、美味しかった。
「スポーツをした後と同じ状態」だと先生は言っていた。「水分をしっかり取ってくださいね」とも。
お腹が空くのもマッサージの効果なのか。いったいどうなっているんだ、私の体は。不思議で仕方がない。
寝床に潜り込んで、とくとくと鳴る心臓の鼓動を聞く。心強い音。
ああなんか、元気になれそう。
昔、マッサージ師になりたかったんだ。
もともと人にマッサージをするのが好きだった。あ、ここ、凝ってる。指が探し当てる。ぎゅっと親指で押し込むと、家族や友達の肩を借りて、自分の背中の凝りもほぐれていくような感覚がある。
なかなかできることではないと、今日わかったよ。他人の痛みや疲れやつらさと、ひたすら向き合う仕事なんだ、って。プロの技は、弱っている命に優しく息を吹きかけ蘇らせてくれる。
憧れは今もやまない。