階段の夢をみる。
日暮れ。たぶんマチュピチュ。行ったことないけどそんな気がする。
ところどころ地面から顔を覗かせている四角い石はインカの遺跡に違いない。
棚田みたいに段々になった山腹で、私はまりのように跳び跳ねてる。羽なんかなくてもほら、こんなに高く跳べる。重力なんか無視してふわりと地を蹴る。斜面を下るにつれて暗さは増して行った。
地に足がつかない感覚。それは嬉しくて?
それとも頼りなくて?
朝、5時のアラームで目を覚ます。夢から覚めてもまだふわふわしてる。
何もかもが新しい。
バス通勤も、制服も。机の上のパソコンも、もう一つついたモニターも。人間関係も、建物のレイアウトも。
時間の流れ方まで違う。ゆったりとした休憩時間を持て余している。
ふわふわしている時は気をつけないといけない。ついつい力が入りすぎるから。リラックスしているのではなく、むしろ緊張している。怖がっている。
肩の力を抜けるようになるまでには、まだ時間がかかりそうだ。
新しく覚えることがたくさんある。
大変だろうと心配してくれる人もいるけれど、実際楽しくて仕方ない。
人に何かを教えるよりも、人から教えてもらうことの方が、私は好きみたいだ。
「教える」という作業は情報の伝達で成り立っている。でもそれだけではない。
教えることには優しさがある。悪意で何かを教えることもあるのかもしれないけど、基本的には親切な行為のはずだ。
「製本テープは半分理折り目をつけてから貼るといいよ」
「エクセルに貼り付けをする時、「値貼り付け」をすると便利だよ」
私の失敗を観察していて、コツを教えてくれる。あるいは失敗しないようにと気遣って、転ばぬ先の杖をくれる。小さな親切ほど、思いやり深く思えるのだよね。ありがたいなあ。
そして、教える人は自分の性格や人柄をも伝えている。話し方や物事を進めるペースが人によって異なるように、教え方にはその人の性格が出るのだ。
例えば、相手が自分で気づくのを待つか先回りして気づかせるか。 同じことを教えるにしても、1から10まで説明するのも一つの方法なら、「なぜだと思う?」「どうしたらいいと思う?」と質問して、相手に考えさせる方法もある。
テキパキ効率よく仕事を進める人は教える時でも無駄がない。1回説明を聞いただけでは、頭の中をさらりと流れ去ってかえって記憶に残らなかったりする。そういう時は自分でとっかかりを作ればいい。「こういうことですか?」と確認すると、確かな手応えを感じる。「覚えが早いね」と言ってもらえることが、何より嬉しい。
教え方の上手い下手はあまり関係ない。上手くても下手でも同じくらい面白い。どんな教え方にしろ、教えてもらう方の努力次第で少しでも多く学べるはずだから。
仕事は、あれもこれも統一性なくやってくる。さっきのあれはこういうことかと、毎日をやり過ごすうちになんとなくわかるようになる。反対に、わからないことの多さにも気づいてくる。自分のやっていることはうんと末端の仕事で、その外側に広がる領域のことをほとんど知らない。
新天地から新しさが失われる時、組織の規模や仕組みや、いいところ悪いところなんかも見えてくるのだろう。
今はただまっさらな気持ちでなんでも吸収する。
自信を持ったり失くしたり、一喜一憂するのもくだらない。でもそうせずにはいられない。