西加奈子『サラバ!』

この本を一言で表すなら「幅広い」。

イラン、日本、エジプトを行き来し、イスラム教、コプト教会、仏教、神道、ユダヤ教、新興宗教(?)まで登場する。そしてあまりにさまざまなトピックを含んでいる。例えば、ジェンダー、マイノリティ、日本の学校と海外の日本人学校、宗教・信仰、震災、テロ。全部で6章あるうちのどれか1章だけで、読書感想文を一つ書き上げるのにちょうどいいくらいな重量感だ。
どう書いたものか悩んだけれど、私は「言葉」に焦点を当てて考えてみようと思う。2章で歩とヤコブが自分たちだけの言語でお互い分かり合えている場面が素敵だったから。

1. 神の名前
言葉とは不思議なもので、どの意味にどの音を当てはめるかには理由がない。恣意的なのだ。

主人公の歩(あゆむ)は、小1年生から4年生までの時期をエジプトのカイロで過ごす。歩は自分と同じ年齢のエジプシャンの男の子ヤコブと友達になり、お互いに違う言語を話しているのになぜか分かり合うことができた。
歩とヤコブの間で特別な言葉があった。それが「サラバ」だ。たった3文字にさまざまな意味を込めて使った。
例えば、「俺たちはひとつだ」。

僕らは「サラバ」で繋がっている。僕らの間には、なんの隔たりもない、僕らはひとつだ。そう、思うことができた。

「サラバ」は、元々はアラビア語のさようなら、「マッサラーマ」を歩がふざけて「マッサラーバ」と言ったことがきっかけだった。だから、「パカパカ」でも「シーユー」でも良かったはずだ。
ヤコブと歩の間で、「サラバ」がやりとりされるたび、どんどん大切な言葉になった。白い化け物の名前になり、神になり、本のタイトルになった。

恣意的という点では、「サトラコヲモンサマ」にも同じことが言える。
「うちに来る人たちが、信じられるものなら、何でもな、良かったんや。」と矢田のおばちゃんは言う。おばちゃんの家に置かれた祭壇から始まり、大勢がありがたがって拝んでいたけれど、それは拍子抜けするほど取るに足りない、ただの言葉なのだった。

もうひとつ、矢田のおばちゃんが生涯大事に持っていた言葉がある。刺青の人が選んだ「すくいぬし」という言葉だ。
選び方が面白い。辞書のページをパラパラやりながら、目をつむった刺青の人に「ここ」「なか」「右から3つ」と答えさせる。
そうしておばちゃんの手元に残った「すくいぬし」という言葉が、何十年も経っておばちゃんの死後、歩の姉や母を救う言葉となるのだから運命を感じてしまう。

言葉に意味を与えるのはやはり人間である。
言葉は言葉だ。それ以上でもそれ以下でもない。「サラバ」でも「サトラコヲモンサマ」でも「すくいぬし」でも、どんな名前でも好きに呼べばいい。
救いを求める人間は何かにすがりたくてそれを信じてしまう。ただの言葉に踊らされないよう、自分の信じるものは自分で見極めなければいけない。そういうメッセージも感じ取れる。

2. 溝、壁、あるいは隔たりについて
物語の中で「溝」「隔たり」「壁」という表現が出てくる。歩は、エジプトで経験する経済的な格差であったり、人種の違いを「隔たり」と感じている。
あるいは言葉では表現されなくても、宗教の違いや「男らしい」「女らしい」といったジェンダーの表現として描かれる場合もある。

親友同士のヤコブと歩の間にも「溝」が存在した。
かたや裕福な日本人の家の子供、かたや床に水溜まりのある家に住むエジプシャンの子ども。言語も違えば文化や習慣、宗教も違う。ヤコブは歩が日本人の友達と一緒にいる時には仲間に入ってこようとしなかったし、歩はヤコブが仕事をしている時(ヤコブはホテルのシーツをトラックのおじさんに渡す仕事をしていた)話しかけることができなかった。
お互いの間に溝があったとしても、たった一言「サラバ」と言えば「俺たちはひとつだ」という気持ちを共有することができた。

エジプトで付きまとってくる子どもたちのことを、日本人の子どもたちは「エジっ子」と呼んでいた。特に学校に行けない「彼ら」は貧しく汚い身なりをして臭った。「彼ら」が近づいてくると歩は、近づいてこないで欲しいと思いながらそれでも笑顔を向けてしまう。自分がいい服を着て贅沢な家に住んでいることに罪悪感を感じるが、「彼ら」と同じ側に立つ気はない。そう思う自分に羞恥心を感じていた。

「彼ら」を受け入れられない歩の罪悪感は、そっくりそのまま私のものでもある。日本にもホームレスの人がいる。目の前に「彼ら」がいても私は何もしない。
「壁」は悪いものなのか。
正しいか間違っているかを別にして、完全な他人に対して「壁」を取り払ってしまうことはなかなかできない。それは自分を傷つけるリスクのあることなのだと思う。

鴻上はセックスした後「壁がなくなる」と表現した。そういうものかと納得すると同時に、誰彼なく関係を持つなんてそんな怖いこと私にはできないなと思う。
中学時代、歩の親友だった須玖は「壁」を感じさせない人だ。「ゲイ」だと噂される同級生にも歩の姉にも、誰に対しても対等に向き合った。震災やテロで亡くなった人のことをまるで自分の家族のように心を痛めてしまう。

須玖のような人を見ると恥ずかしくなる。
例えば、2023年の今、ロシアの侵攻を受けるウクライナのニュースを見ると自分が安全な日本でのうのうと暮らしていることが恥ずかしくなってくる。ウクライナ侵攻だけではない。ハワイの山火事しかり、トルコの地震しかり、そんなニュースは掃いて捨てるほどあって、その一つ一つに心を痛めたりすることをとっくに私はやめてしまった。

3. 姉の言葉
言語が違っても分かり合えるように感じる時があれば、同じ家族なのに言葉を伝え合うことができない場合もある。姉について歩はこう書いている。

姉はいつだって、言葉を発する前に何かをやらかした。壁じゅうに鼠の尻尾が生えた巻貝を彫ることであれ、体を洗わず、部屋から出てこないことであれ、姉は何かを伝えるとき、言葉ではなく行動で表わした。それが姉の言葉だったとしても、僕たちにはそれが理解できなかったし、そのことで姉はますます、言葉を手放すようになった。

日本に帰国すると歩の両親は離婚し、姉は不安定な時期を過ごす。転校した公立の中学校でいじめを受けて不登校になり、進学を拒否した。家では自分の部屋に引きこもり、母の作ったご飯を食べなくなった。
その行動を姉の「言葉」だと捉える歩の見方にハッとさせられた。私も自分の家族に似たような経験があったと思い出した(うちには離婚も海外生活もなかったけれど)。自室にこもって食事に出てこない妹の姿に、私は妹の言葉を読み取ろうとしたことがあっただろうか。できれば関わりたくないと、同じ家の中で避けるように過ごしていたのではないか。
苦しくても言葉では伝えられない時がある。それでもなんとかして伝えようとしている。伝わらないことの方が多いかもしれない。あのとき妹のことを理解してあげられなくて申し訳なかったなと、大人になった今思う。

家族の中であれ外国であれ、距離には関係なく隔たりはどこにでもあるものだ。関わる前からしてすでに諦めているのかもしれない。何か問題を抱えているらしいと知りながら、私は妹に何もしてあげられなかった。まるで遠い国の出来事と同じように。

4. 「サラバ」の意味
大人になった歩とヤコブが再会した時、2人だけの言葉は失われてしまっていた。ヤコブは美しい英語で、歩はたどたどしい英語で、会話する。
「信じるって何?」歩はヤコブに尋ねるが、息をするのと同じように何かを信仰するヤコブのことを、歩は永遠に分からないだろうと感じる。2人を隔てているのは長い長い時間だった。20年以上経っていたはずだ。
2人を繋げたのは、「サラバ」だった。

ヤコブが伝えようとする前に、その言葉はもう、僕に届いていた。

大人になっても、「俺たちはひとつだ」という同じ気持ちを共有した。
あの時と違って、ナイル川の河面に白い化け物は姿を現さなかった。それでも歩は、あの化け物がいたから、長い時間の隔たりがあったから、「僕とヤコブは繋がっていた」と感じる。そして白い化け物のことを「サラバ」と名付け、「僕の神様は、サラバだ」と宣言する。

「サラバ」は別れ・隔たりを意味する言葉ではあるけれど、逆に言えば別れから再会までを繋ぐものだ。あの時の別れがあったから、今の再会がある。会わないでいた時間・隔たりがあったから、今の自分たちがいる。そういう意味なのだろうかと私は読んだ。
隔たりは、出会うまでの時間、出会うまでの距離と言い換えることができる。それは一つの関係性だ。遠い国の出来事でも家族の壁でも、きっと隔たりを通じて繋がっている。大人になった歩がエジプトに行ったきっかけは、「コプト教会襲撃」のニュースを見たことだった。

なぜ2度目の別れでは、白い化け物は姿を現さなかったのか。
それは、歩の中にあったからだと思う。歩の経験してきたこと、歩んできた道そのものと言える。
その根拠は姉の言葉だ。姉は、ある意味で自分のことを「神」であると言った。

私の中にそれはあるの。『神様』という言葉は乱暴だし、言い当てていない。でも私の中に、それはいるのよ。私が、私である限り。

どこかへ行く時、私は私をその場所まで連れて行く。私は私の神様だ。(そういうこと?)

歩は「サラバ!」というタイトルの小説を書き上げるが、小説の書き手はあたかも「神」の立場にいる。

生まれた地イランに着いて、飛行機から左足を踏み出そうとする場面で物語は幕を閉じる。

生まれた場所に触れた瞬間、別れの気配がしている。でも僕は、決して絶望しない。僕は「それ」を、僕の「サラバ」を信じている。

冒頭、生まれた時は「諦め」で始まっていた。「自分にはこの世界しかない、ここで生きてゆくしかないのだから」という諦めを胸に生まれてきた。
生まれた瞬間からすでに死は決まっているけれど、始まりから終わりまでの間に経験する全ての出会いを信じている。そういうふうにも取れる。

5. インシャアラー
「インシャアラー」(神がそう望むのなら)は、私の好きな言葉の一つだ。大学のアラビア語の授業でその言葉を知った。何か失敗した時の言い訳にも使うそうだ。例えば遅刻してしまったとしてもそれは神が望んだことなら、しょうがないかと思える。それを聞いた時私は、ポジティブな諦めの言葉だと思った。

小説中の子ども時代に戻る。歩が日本に帰ることになり、ヤコブにお別れをいう場面でヤコブが言う。
「神がそう望むのなら」
心の中ではどんなに悲しくても、行かないでくれと駄々をこねることは決してしない。
歩の生来の性質である「諦観」と、どこか重なる言葉でもある。親が決めた帰国・離婚に逆らうことができない。家庭環境や親の決定に対し、子どもの力ではどうすることもできないと感じている。

「神がそう望むなら」はエジプシャンであるヤコブの言葉だが、もし彼が日本人だったとしたら何と言っただろう。「仕方がない」だろうか。
「インシャアラー」には、「仕方がない」と違い、諦めと同時に希望も感じる。あるいは、全て神頼みで投げやりにも聞こえるかもしれない。神がそう望むならお別れも致し方ないが、神がそう望むならまたいつか会うこともあるだろう。
イスラム教ともコプト教とも異なるがクリスチャンの友達に聖書に書いてあることを教えてもらったことがある(結構昔のことだからうろ覚えだけど)。人間が良い行いをできるのは神様のおかげなのだ、と。人間はもともと悪いことをしてしまう生き物だが、神様の愛のおかげで良い行いをできる。人間の行動は自分で決定しているようで、神の意思によるところが大きいのかもしれない。
だから、「神がそう望むなら」の範疇には自身の行動も含まれている。神がそう望むなら会いに行くよう努力もできるのだ、という具合に。
そういう意味で神は自分の中にいる、という見方も可能だ。

まとめ
「サラバ」は魔法の言葉に思えてくる。自分と他人が完全に分かり合えることなんてあるのだろうか。ヤコブと歩が特別だったのではないか。
私は、やっぱり魔法の言葉なんてなくて、信じることしかできないのだと思う。人と人の間に隔たりは依然として存在する。隔たりは化け物でもある。隔たりを無くせると信じて生きていきたい。

歩はこう書いている。

僕はこの物語において『神』だが、それを信じるかどうかは、読む人に委ねられている

一つ一つの言葉は本当に取るに足りないものだ。言葉をつなぎ合わせて小説はできている。読み手に何かを信じさせることができたら、それは小説として成功と言えるのではないか。私もそんな小説を書いてみたくなった。

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