武術と格闘技はどうも違うらしい。
ボクシングや相撲はルールの中で勝ち負けを競う。クラヴマガに試合がないのは、生きるか死ぬかを前提とした武術だからだ。違うんだ。そんなことすら私は知らずに生きていた。たまたま始めたのがクラヴマガだったというだけで。
YouTubeを見ているうちに、クラヴマガ以外の武術にも興味が出てきた。ジークンドー、合気道、太極拳、システマ。
システマがすっごく気になる。ロシアの伝統武術を源流とする軍隊格闘技。護身術という点ではクラヴマガと似ているかもしれないな。一方で、「ロシアの合気道」とも呼ばれる。脱力、リラックスによる力の使い方、打撃に耐え得る呼吸法などなど、動画を見れば見るほど不思議で仕方ない。なんか、わからないけど、ロシアっぽい感じがする。この未知の感じ。面白そう。
クラヴマガのルーツはイスラエルにあるという。創始者のイミ・リヒテンフェルドはユダヤ人。当時紛争状態にあった東ヨーロッパ、後にイスラエルで、自衛手段のための護身術を教え、仲間の命を救った。
これまでに私が身につけた技術は、まだほんの末端に過ぎないのだろうなと思う。首締めの解除、ナイフで襲われた場合の武装解除、後ろから抱きつかれた時のほどき方。日本で普段生活していて危険を感じるような場面はめったにないのだけれど、イスラエルでは常に危険と隣り合わせなのだろうか。覚えた技の一つ一つに、行ったこともない国の「危機感」のようなものを伝えられる。自分の命は自分で守る。そう教えられた。常に心の準備はしておけよ。
実際、マガの練習は楽しい。単純に体を動かすことが気持ちいい。1時間のレッスンはいつもあっという間に過ぎていく。その日うまくできなかったことは家に帰ってから復習する。マイペースな私には、ひとりで考えてあれこれやってみる時間が必要なのだ。上達していく喜びは何物にも変えられない。生きるか死ぬかという状況に備えて学んでいるというよりも、ただ楽しくて続けている。呑気なものだよね。
身を守り、いかに効率よく敵を攻撃するかという必要に迫られて武術は生まれた。けれどその向かう先は戦うことではなくて、むしろ体の使い方を学ぶことなのではないかという気がする。
クラヴマガは、体力、体格に関わらず、短期間で身につけることのできる技術だとされている。効率的な体の動きが強さを生んでいるのだなと実感する。たかだか始めて3年足らずの私が言えることではないが、何年も鍛錬を積んでようやく習得できる武術と比較したら、「浅い」のだろうか。
クラヴマガはまだ生まれて1世紀も経っていない。システマはどうだろう。ロシアの伝統武術はどれほどの時を経て伝えられてきたのだろう。もっと歴史のある、例えば太極拳や古武術は、身体操作を洗練させていくことに重点が置かれているのではないか。平和な世の中にあっても廃れることなく伝承されてきたのは、それが理由なのではないか。
単なる私の憶測に過ぎないけれど、全ての武術を突き詰めていった先には同じ本質があるのではないかという気がする。
武術は文化だと思う。そういう意味では言語によく似ている。身体操作を極める技がたまたま特定の武術という形態をとった「恣意性」。そして、人間一般に開かれた「普遍性」。
いろんな国・地域で独自に発展してきた武術がある。当たり前のことだけれど、肌・目・髪の色の違いや身長・体格の差こそあれ世界中で人間の体のつくりは共通しているものだ。どの武術でも、人間は腕2本、足2本、肩甲骨や骨盤をもつヒトの体を前提としている。武術の持つ普遍性が、異国の武術も習得可能にしている。
言語も一緒で、コウモリや鯨の周波数で会話をする言語はまずない。どんな言語も、人間の発声器官の範囲内で発音できるようになっている。そして、所詮言葉は言葉だ。いくつ言語を知っていたところで言葉にできないことは伝えられない。
超人的な武術は伝承していけない。卓越した個人の能力はひとりだけのもの。誰にでもできる技術でなくては何百年先までも伝えられない。
武術を極めるのは、語学を磨いていくのと似ている。習うより慣れろ。初めて耳にする発音を声に出しながらひとつ一つ覚えていくのと同じように、自分の体で実践しながら身体操作を学んでいく。
いつしか自分も流れの一部になる。同じ言語で話すこと。クラヴマガでいうなら、イミ・リヒテンフェルドが生み出した技を自分の体で再現すること。
伝えられていく過程で、時代や環境に合わせて武術は変化する。紛争下のイスラエルで生み出された技と、平和な日本で学ぶ技は全く同じなのか。100年先に伝えられるクラヴマガはどんな姿をしているのだろう?
言語も同様に変化する。はるか昔に語られていた物語は今、古典となって残っている。現代日本で話されている日本語は、そこから変化していったものだ。さらに時代を経て、言葉は変化し続けるだろう。
流れていく水をほんの少しもらって返す。それが生きるということじゃないかな。今この瞬間だけは私の技、私の言葉。