「ウサギ見えた?」
手で望遠鏡を作って覗きながら妹が言う。
「知っているか?月にはウサギなんていないのさ。イルカが泳いでいるんだ」
「嘘だ!」私は笑った。「だって月には水がないんだもん」
けれどもおじさんは大真面目な顔を崩さない。あんまり大真面目すぎてかえって不自然である。パチパチ瞬きをしてから話し始めた。
「いいや、表面からは見えないだけで月の中にはたっぷり水がある。人間がどんなに几帳面に探したところで生物にとって貴重な水が見つからないのはそれが理由だ。中でイルカが泳ぐとくるくる月が回転する。さらにイルカは超音波を出して正しい方向を知り、地球の周りを進んでいくんだ」
「中にイルカをイルカを飼っているおかげで、月が地球の周りを回っていると言うわけ?ふうん、私は信じないけど」
ダジャレを言う人のことを私は信用していない。どうせくだらないことばかり喋っている。こっちが子供だと思って、嘘を信じ込ませて面白がっているんだ。
「それならどうしてイルカは、自分の自由に泳いでいかないの?超音波を使って方向がわかるならどこでも好きなところへ行ったらいいじゃない?」
と、質問したのは妹だった。3つ年下の妹は人を疑うことを知らない。いくら見つめても月の中まで見通すことはできないだろうに、熱心に月を見つめていた。
夜空に浮かんだ満月はこうこうと明るい光を発している。目を細めてじっと見つめているとその表面になんとなく模様が見えてきた。昔の人はあれをウサギだと言ったのかもしれない。でも月の内部にイルカが存在するなんて、ほら吹きおじさん以外に誰も言っているのを聞いたことがない。
私は妹に教えてやった。
「地球の引力に引っ張られて、月は地球の周りを回ることしかできないんだ。別にイルカが月を動かしているわけじゃない」
新聞に中秋の名月の特集で解説されていたから知っている。地球に衝突した隕石が月になった説、もともと月は地球の一部だった説なんかも載っていた。いくつか説があるということはつまり、人間の科学技術が進歩したとはいえ、すべての真実を解明したわけではないのだなと思う。だとしても、月にイルカなんているわけない。
「広い宇宙を探しても地球以外に生命体がいるのをまだ証明できていないんだ。もしも月にウサギやイルカがいるなら、真っ先に発見してもおかしくはない。なのに見つかっていないなら、いないに違いないよ」
私が言うと、おじさんはちょっと眉を上げた。
「見つからないならいないのと同じか?」
何を言っているのだろう、このおじさん。見つからなくても、いるかもしれないってこと?
「もしかして、人間に見つからない方法で隠れている可能性もあるだろう」
「月をぱっかんって真っ二つに割ったら正解がわかるでしょうね」
「そんなことしちゃダメだよ、お姉ちゃん。でも、月の中ってどうなっているの?中まで光っているのかな」
「そう、光っている。月の中は黄金のプールになっていて、その中で泳いでいるのはゴールデンレトリバーではなくイルカだ。大きなイルカが一頭、くるくる泳ぎ回ってる。それがね、地球にいるどんなイルカよりも大きいんだ。どれくらい大きいかっていうと、日本列島を北海道から沖縄までパクって一口で飲み込んでしまえるくらいさ」
「ええっ、信じられなーい!」
ついには妹もそう言った。この場合の「信じられない」は「とても想像できない」という意味かもしれないが。
黄金のプールってなんだよ。誰がそんなの信じるものか。
月はただのでっかい岩の塊でしかない。光って見えるのも太陽の光を反射しているだけで、自分では光を発していないのだ。ジョーシキでしょ。
子供の時はくだらないダジャレばかり言うおかしなおじさんだなあと思ったけど、大人になって『星の王子さま』を読んでからは別の見方をするようになった。
人間はいつだって物事の表面しか見ようとしない。おじさんは、目に見えない部分こそが本当は大切なんだと伝えようとしてくれていたのではないか。
だからといって、小さい子供に嘘を教えるような大人には自分はなりたくないが。月の中で泳いでいるイルカの話を今も私は信じていない。