愛について

子どもの頃、母から言われた言葉がある。
「まず自分のことを愛していなければ、人を愛することはできない」
なぜそんなことを言われたのかうろ覚えなのだけど、大方私が「自分のことが嫌い」とでも話したのかもしれない。
その時の私には理解できなかった。自分のことが嫌いでも、他人のことは好きだったからね。

いま私は何度目かの恋愛をしている。いつだって私は本当に好きなつもりでいるし、誰かを好きでいるのはとても幸せなことだ。
その一方で私はやっぱり考えてしまう。何をすれば正解なんだろう、って。幸せな時ほど、失敗が怖くなる。どうしたら上手くいくのだろうかと考えずにはいられない。
たくさんの人と付き合えば付き合うほど、上手になれるものだろうか。学習したら上手くなるもの?
さあ。もしそうなら、恋愛上手なAIが生まれても不思議はない。

愛するってなんだろう。相手に何かを求めることなのだろうか。それとも相手のために何かをすること?
「可愛い服を着て欲しい」「一緒に遊びに行きたい」「LINEの返事が欲しい」「料理を作って欲しい」
そうやって一つ一つ望みを叶えていくのが、わかりやすい恋愛の形なのかもね。

恐らく、愛にはいろんな形があるのだろう。嫉妬や束縛や何かにつけてあれやこれやと文句をつけられることに愛を感じる人もいるのかもしれない。だとしたら、私と付き合う人はきっと物足りない気持ちになってしまうだろうな。
少しも嫉妬をしないから、少しも束縛をしないから、あれこれ口出しをしないからといって、愛していないわけではないよ。「あなたがそうしたいなら、それでいいじゃん」と思っているだけで、何もしないけど、ちゃんと好き。
見えない気持ちをわかるように伝えるのは難しい。だから人は嫉妬や束縛を受けたり、うるさいくらいに小言を言われたりしていた方が安心できるのかもしれない。

良かれ悪しかれ、私は人から影響を受けやすい。相手に何か働きかけるよりも、自分を相手に合わせてしまう。
でも実際は相手のことなんか眼中にない。「あなたはどうしたい?」と尋ねるのは、自分に意思がないからだ。相手のためなんかじゃなかった。
自分のことばかり考えている。だって本当によくわからない。自分のことが。私はどうしたいのだろう。
ほらね。
「相手のことがよくわからない」とは考えてみもしないんだから。最初から理解しようという気がないんだな。
そのうちにだんだん、私は「私」を見失って、最後には上手くいかなくなるのだ。
一人でいる方が気楽でいいや、とも思う。

私の中では他人の存在が大きすぎて、自分の意思がかき消されてしまっていた。何があっても絶対相手のせいにしない。それをまるで信念みたいに頑なに守って。「どうしようもないな」と諦めるのは、きっと私なりに愛しているつもりだったのだろう。
でもそれじゃいけないんだ。
何も望まないのは存在しないのと同じだ。たとえ、誰も何も悪くないのだとしても、自己主張はしよう。自分も相手と同じくらい、大切な存在なのだから。つまり、他人を大事にしたければまずは自分から、ということだ。

今の恋人は、たくさんわがままを言ってくる。遠慮なく。そういうのは結構嬉しかったりする。
もちろん全て叶えるわけじゃないよ。乗り気でない時は却下だ。遠慮なく。
楽しいからそういうやりとりをするんだね。

前と比べたら少しは前に進めているだろうか。それともただ同じことを繰り返すだけに終わるのだろうか。
何かがうまくいかなかったとしても、いま私は幸せなのだ。
「ありがとう。毎日思ってるけど、今伝えておこうと思って」
毎日そこにあるものだから当たり前すぎて見えなくなってしまうもの。それが愛なのではないかと思ってる。

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