近藤史恵『スティグマータ』

競技前から食事制限をし、どんなに不安やストレスを抱えていても睡眠をとり、自分個人の優勝は願わずひたすらチームに貢献する。アシストに徹し競技をやり抜く人間は、一体何をモチベーションにしているのか。
仕事だから?
それが自分の役割だから?

サイクルロードレースについてなんの知識もなく読み始めたけど、すぐに引き込まれてしまった。
なんだろう?どうしてだろう?
ロードレースの特性や用語の一つ一つが紐解かれていく、その過程が楽しい。
もう一冊、サイクルロードレースを題材に近藤史恵さんは『キアズマ』という本も書いている。自転車初心者の大学生が主人公で、そちらを先に読んだらわかりやすかったかもしれない。

『スティグマータ』の主人公は、フランスのチームに所属するプロ選手。グラン・ツールのひとつ、ツール・ド・フランスに出場する。
「ツール・ド・フランス」なんてレースがあることを初めて知ったけれど、読み進めるほどその過酷さに驚かされる。日によって100キロ、200キロの距離を走る。平地もあれば落車の危険のある石畳を走ることもあるし、アップダウンを繰り返す山岳コースもある。2000メートルを超える山を自転車ひとつで越えていくなんて、想像もつかない。体力がなければ脱落していく。

自転車に乗るって自由なイメージがあった。けれども、サイクルロードレースの世界は全くそうではなかった。
競技は3週間にわたって続く。うち休養日はたった2日。勝ちたいからと闇雲に飛び出しても勝てるものではない。勝てない日は少しでも体力を温存し、ここぞという時に勝負に出る。一つ一つの戦略・判断が問われる。
チームで戦う競技でもある。平地でのスピード勝負が得意なスプリンター、山岳で力を発揮するクライマー、天候や道の状態。それぞれ得意不得手があり、役割をもっている。
そして、風圧という制約。時速60キロで走る時の風圧を避けるには、誰かが走る後ろについた方がいい。集団を形成し距離を稼ぐ。
アシストの仕事はエースをゴールまで運ぶこと。長距離レースではコースを集団で走り抜け、ゴール間近でどれだけ速度を出せるかが勝敗に差をつける。アシストが交代で先頭を引き、エースの体力を温存する戦略をとる。
ほんの一握りの才能を持った人だけがエースに選ばれ、マイヨ・ジョーヌを着ることができる。

私はどちらかというと勝負事には興味を持てない方だ。普段からスポーツ観戦しないし、テレビでオリンピックが流れていても見向きもしない。
怪我を負ったり事故で死ぬことさえあるのに、勝つためにそこまで熱くなれる理由がわからない。自転車でもなんでももっと自由に楽しくやればいいのにと思うタイプ。
それでも本を読むと、3週間もの間にわたって苦しんで地獄を走る人の気持ちがわかってしまうんだ。必死で走る姿を、必死になって読んでしまう。

この地獄は終わっても、別の地獄が続くのだ。

自転車で走り続ける選手人生を端的に表す一文だ。
それでもここで走りたい。走れる限りは。

なんか、応援したくなってしまう。
たぶん生で観戦に行ったとしてもこれほど感情移入して応援したりしないだろうな。小説として読んでいるから、その世界の中に、一人の人間の生き様に没入できるのだと思う。

サイクルロードレースの頂点のひとつ、ツール・ド・フランスというレースについて知ることも醍醐味ではあるが、ストーリー自体も文句なしに面白い。
キーワードとなるのが、
histoire イストワール。
フランス語で「歴史、物語」。
どこからきてどこへ向かうのか。なんのために走るのか。
一人一人の選手は観客に魅せるためのイストワールを持っている。総合優勝を狙うスター選手だけでなく、アシスト選手にもそれぞれ自分のイストワールがある。

『スティグマータ』は30歳という、新人とベテランのちょうど間のような年代の選手の走りを描いていたけれど、もちろん30歳に至るまでの経緯もあるし、その後どう走っていくのかという未来も続いていくはずだ。
一冊の完結した物語でもあると同時に、過去と未来という時間の流れをも感じさせる。

「広がり」をもつ小説だと思った。
描かれている部分がとてもリアルなので、描かれていない部分も想像させる。
ちょうど、光の当たる部分、目に見えるものだけが現実ではないように。見えていないところも確かに現実の一部だ。

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