いま考えうるすべての仕事について。

僕が書いた文章を2年分遡るように読んでいた。乏しい知識と経験から書かれた文章だったけれど、なかなか良いもんじゃないかと関心したりしていた。確かにつたない。けれど読者へのサービス精神を文体から感じたし、何よりも物事の捉え方の解像度がけっこう高い。それは、まさに会社勤めの僕に最も不足していることだと思う。

 

最近の僕は仕事というものにまったく意義を見出すことができていない。もちろんどんな業務であろうと自分自身の時間と労力を提供して対価をもらう。つきつめるとただそれだけの仕組みであり、僕は同意したいち労働者なわけなんだけれど、やはり僕は意義を見出そうとしてしまう。というよりも、意義がないと僕はまったく手を動かすことができなくなってしまう。僕は労働者としては扱いづらく、生産性も低い、簡単に言うとダメな社員ということだろう。誰も意義をかんじないと走らない使役馬に金を払おうとは思わない。

 

「労働とはそのように無情なものだ」と割り切ってしまうことは可能だろう。現に僕は悩んだ末にそう自分に言い聞かせてだましだまし目の前の業務をこなしてきた。しかし、いまその手がぴたりと止まってしまったのだ。進行しなくなった僕のプロジェクト。そのチームメイトへの罪悪感が募る。上司からの評価を恐れている。けど、そんなネガティブな感情だけではうんともすんともしない。ぼくのダーリンのコンセプトが改めて自分に問題定義をする。
「世の中には清算しないといけない物事がたくさんある。それは放置しないと固く深く沈んでいってしまう」
どうやら僕は、心に渦巻く複雑な感情を「清算」しないといけないところに立たされているようだ。

ことの発端は、小田原のワーケーションだった。東京で知り合ったコピーライターの友人に誘われて、彼女が賃貸している小田原の家に、彼女の同業者を集めてみんなで2日間ワーケーションをすることになったのだ。システムエンジニア・料理人・ライター・現代アーティスト、そして僕という異業種だらけの集まりになった。
小田原で振舞われた料理はどれもおいしかった。僕を除くすべての人が料理に精通しており、純粋に調理が好きな人がいれば、スパイスに特化した興味を持つ人がいれば、器にこだわりを持つものがいた。みんな何かしらのこだわりがあり、そこには独自の視点と、その人の価値観が存在している。僕はそのような独自の価値観を持つ人が「健やかであり、豊かな人」であると定義していたので、いったいどんな話ができるのだろうかと期待していた。

早い話、めちゃくちゃ失望してしまったのだ。僕は人間のこだわりから、その人特有の価値観を知ることを期待している。僕は彼らのこだわりを問い、深く掘り下げた。「クラフトコーラが好きだ」「飲む人にカウンセリングして唯一のコーラを作っている」面白い。当然僕はクラフトコーラを作るに至った経緯を問う。しかし、そこで語られるのは「市場性がある」とか「グロースの余地がある」とか、マーケティングに即した回答に落ち着いていく。確かに現代はクリエイティブ性だけでは食っていけない。価値創造型の職種にかぎらず、どこの業界においてもマーケティングの知識は必須だ。食っていけないからね。

けれども、問うても問うても、その人の人間性が現れないことに恐怖を覚えるようになってきた。一歩踏み込んで背景となる価値観を問うても、妙にはぐらかされる。核心には迫れない。僕は彼らに問うのをあきらめてしまった。きっと彼らは説明責任を背負って生きているのだ。何者でもない自分の、社会での立ち位置を理解してもらえるように・自分が社会に存在する価値を認めてもらえるように、社会での立ち位置の説明責任を違和感なく受け入れ、息をするのと同じように、説明を繰り返していたのだ。

たしかに、僕と彼らは初めて会った関係性であり、人となりを問うには時期尚早だったのかもしれない。もちろんそれも考えうる。しかし、そうであろうとも、名刺を渡すように社会的立ち位置を説明されるのは、僕を社会環境の中でしか見ていないということであり、それ以上の関係性は考えていないように捉えられた。それに加えて、彼らがおいしい食卓を囲み、ご飯を食べていても、おのおのの社会的説明を自然と行い、団らんとした雰囲気が生まれていくことに恐怖を覚えた。食卓を囲いながら、お互いの社会的位置づけを確認し、自分との関係を判断・決定する行為を繰り返して、共有された時間を楽しんでいる。そこには、人となりがほとんど伺えなった。ごはんを食べながら背筋が凍りついた。はじめて東京という街が恋しくなった。僕は逃げ去るように特急ロマンス号にのって東京の自分のいえに帰った。

 

この、仕事に結びついた圧倒的な違和感。嫌悪感・疎外感がきっかけとなり、僕は何のために働くのか?と自分自身に問わざるを得なくなった。はたして自分の時間・労力を資本家に差出し、対価を得るだけが仕事なのか。僕たちは今後もその狭い環境のなかで自分の市場性を高めることに努めて、説明責任を負い続けることになるのか。説明責任がコミュニケーションを侵食した世界で人間関係を構築していくしかないのか、という問いだ。
そしてそれは、誰かを救うという大義を背負って仕事をすること、かつ、その行為を通して、人間性を鮮やかに浮かび上がらせ、自分自身の人生を豊かにすることができるという僕の期待は正しかったのかという根本的な問いだ。

今日、僕はにっちもさっちもいかなくなって、プロジェクトのメンバーに心境を打ち明けた。自分のふがいなさによってプロジェクトが遅延していることの謝罪も含めて。たった30分間のZoomのミーティングではあったが、僕は救われたような気持ちになった。彼女は僕の混乱した状況を聞き、一切責めるわけでもなく(表面的ではなく精神的にも)、論理的打開策を検討するわけでもなく、ただ「楽しく仕事しよう」と言った。

”わたしも時々仕事に追われて、なにのために労働をしているかわからなくなる。けれど、私があなたと一緒にプロジェクトをしているのは、あなたの「救いたい」という想いに共感をしたから。そしてはやく実現したサービスを目にしたいからだ。たしかに今の業務はサービスを実現するための些末な業務ばかりかもしれない。けれど、根本的な目的はあなたがどうしてもこまっている人たちを「救いたい」からでしょう。私もたまに見失ってしまうことがあるけれど、いつでも本来の目的に立ち戻って、何のために働くかを考えてみよう。そしたら目の前の仕事も楽しめるはず”
これを書いていて涙が出そうになる。一番身近にはたらくパートナーが、僕の想い・それを通した人間性を認めてくれている。そして、それに期待してくれている。なんてありがたいことだろう。僕は彼女の答えに救われる想いがした。

たしかに、企業の最終的な目的は金を稼ぐことだ。その環境に属しているのだから金を稼ぐことを求められるのは当然だ。金を稼ぐにはマーケティングの知識が必用となる、市場性を正しく読み解くスキルも必須だ。そこで扱われる「人」は自然と「大衆」になる。政治があり法律があり金が流れる総体だ。僕たちは無味な大衆からいかに金をとるか・あるいは大衆としての企業から金を稼ぐかを求められる。大衆の規模がでかくなればなるほど(お隣さん→部活動員→区民→日本人→人類)個の人格というのは希薄になっていく。けど僕は、やっぱり一人の人間と取り結び、人間性を知り、彼を救うために働きたい。
僕の悩みというのは、人類・市場という対象の規模がでかくなるにつれて人間性が薄れていくなかで、いかに個の人間からボトムアップに思考ができるかという壁があり、未熟さから個と大衆を結びつけるほどのスキル・経験がなかったことから発しているのだと理解した。

ぼくのダーリンは「生きるために、書く」と提言している。それは文章を通して日常の生産を行い、健やかに生活をしてほしいという僕の想いが込められている。想いの対象は、20人ほどのメンバーであり、自分自身。さらにひろげるとダーリンを積極的に読んでくれている100人ほどの読者だ。メンバーはもちろん、読者の一定数は顔を思い浮かべることができるし、どんな性格なのかを僕は知っている。LINEで直接話しかけることができるし、悩みを聞くことができる。
ただし、僕が何かしらの影響を与えることができるのはたかだか100人程度のものだ。そしてダーリンを通して金を一銭も稼いでいない(そういう思惑でもあるんだけど)。いま会社が僕に出しているオーダーは「3年で10億円稼げるサービスを開発しろ」だ。対象の数は100人どころか数百万人になるだろう。そして一人一人からお金を払ってもらう仕組みを生み出す必要がある。そりゃあスキルも経験もない僕がいきなり数百万人の人の顔を想像できるか・金を稼げるかと言われて無理だよなあ。
ダーリンは、僕が与えられた仕事の難易度を客観的に教えてくれた。

もう一つ、ダーリンが僕に教えてくれたもの。それは「やっぱり俺はみんなに健やかに生活してほしい」と本気で想っているということだ。当時の僕の文章から伝わるサービス精神や物事の解釈というのは、やっぱり見てくれている「あなた」に向けられたものだ。大衆でも法人でもない。

長くなってしまったけれど、ダーリンという環境(過去の文章・書くという行為)によって、僕の違和感はかなり整理された。僕は未熟な人間だ。スキルだけではなく、人間性も褒められたものではない。必ずまた仕事に対して漠然とした不安を抱えるだろう。けど、根本的な問題というのはここに記した通りだ。いつでも立ち返ってこよう。楽しんで仕事をしよう。ね。

今日も読んでくれてありがとう。「生きるために、書けば」無駄な文章は存在しない。思考のわだちは時間を超えて君を救ってくれる。

人生初のボクシング体験

私に不似合いなものがあるとすれば、それはボクシングとかレスリングみたいな格闘技ではないかと思う。テレビでボクシングの試合を見るのは全然好きではない。痛そうなのはできるだけ避けて通りたいと思う。見たくもない。
穏やかで大人しい平和主義者としてずっと生きてきた。他人をグーで殴ったことは一度だけだ。話せばわかる。それが信条。 “人生初のボクシング体験” の続きを読む

耳鳴り

補聴器のスイッチを入れると、雨の音がしていることに気づいた。パラパラパラ。
昨夜は虫の声が賑やかであった。どんな音だったか明るくなった今、思い出そうとしてもはっきりと擬音語にできない。
パラパラパラ。テントの屋根を雨が打つ音ばかりが途切れることなく続く。 “耳鳴り” の続きを読む

秋の日誌

もうじき高さ10メートルに届くかというところで、アカマツは突然枯れてしまった。薬剤を打ったりもしたけれど、はじめに下枝の変色が認められてから全ての葉が枯れ落ちるまで、結果2週間もかからなかった。カミキリムシが媒介する線虫病。周囲に被害が広がるのを防ぐため、このマツは抜根して焼却処分するか、根本ギリギリから伐採して焼却、残った根には薬剤を打ち、更に燻蒸処理を行う必要がある。 “秋の日誌” の続きを読む

20210906雑記

最近自分自身は本当は何がしたいのかを考えている。

自分自身の有限の時間を使って何がしたいのだろう。その結果何が達成できるのだろうか。

そのような禅問答に近いことを淡々と考える中で、自分との距離感を測っている。

最近よく本を読むようになった。他者の知識から有益な情報を引き出したいのだ。その世界に何かしらの素晴らしい示唆があり。僕はそれを汲み取ろうとしている。

冷静になって考えている。本当に書籍や人の発言に正しさは含まれているのだろうか。自分自身の血肉に変わるエッセンスがあるのだろうか。
答えは、YESでもあり、NOでもある。

結論から言うと、今の僕の状況では、何を吸収しても無駄なんじゃないだろうか。

・誰かがモチベーションを上げてくれるのを待つ

・有益な情報は外部に存在する

・それを知らない僕はモチベーションが上がらない。

そんなはずはない。きっとそうに違いない。

自分がやらなければならないこと。自分が人生をかけて達成したい目標は、あくまで自分自身の中にあるのだ。僕に今求められているのは、「僕はどう思っているのか」「僕は今何を求めているのか」をいかに外部からの情報を遮断して、じっくり自分自身に聞くこと。自分の微細な心情の変化から、汲み取ることだろう。

今、僕は仕事をしながら、自分の持つ資産を切り崩して生活している気がしてならない。

大学生の頃の培った人よりも高い想い。それを実現するための数々の内省・その手段。そこから培われた思考能力。どれも仕事をする上で非常に重要だし、一朝一夕でなんとかなるものじゃない。僕は結果として残った「思考能力」を切り崩して生きている気がするのだ。

なぜ切り崩していると感じるのか?それは明確だ。いずれこの思考能力もそこを尽きるのではないかと危惧しているのだ。

「思考能力」は僕の中の心情のきびを読み取る結果として培われたものである。とすると、自分自身の声を聞き取ることを行わなくなった僕は、いずれ武器の思考能力も衰えていくだろう。そうなったら、僕の手元には何も残らない。思考能力もなければ、強い想いを持ち続けることも困難になる。そうなった吉田純也は社会は必要とするだろうか。それ以上に、僕は人生を楽しく生きていけるだろうか。無理に違いない。

兎角、本や現地から得られる知識は結果としてのHOWの部分が大部分を占める。しかし、そんなことよりも重要なのは自分自身は何がしたいのか?をしっかりと聞き取ることができる内省力だ。

僕が大学生の頃、ほとんど本なんて読んでいなかったじゃないか。じゃあ何に時間をかけていたか?それは自分との対話だろう。

・サウナで自分自身の声を探る

・芝生で頭を空っぽにした結果、湧き出る感情に耳を傾ける。

・酒を飲んで物思いにふける

・近しい人に想いのためをぶつけて、知識を体系化させていく

・食べるもの、目にする景色、全てを自分との距離を測る(それを消費した時の自分自身の感情のきびに目を向ける。生産者の感情に共感する)

どれも、うちなる自分に目をむけていたはずだ。

確かに、考えている時は、何も生み出していない。生産性は低い。

けれど、人生をかけて何かを達成したいとき、自分自身の向かうべき方向性を持たないのは、労力と時間が四散し取り止めのない人生になっていくだろう。

それと比較したときに、長期的に見て、成果をなこすのはどちらだろうか。

モチベーションが上がらない?社会での市場のあげ方がわからない?思考能力をあげたい?そんなものは結果として残る副次的な産物だ。

根本の部分は、「自分のうちなる声を汲み取ること」である。その一つの手段に「外部の情報と自分自身との距離を測り続ける」ことがあり、その結果として上記の副産物が生まれる。

僕はもう一度立ち止まり、いや立ち止まるわけではない、見た目は完全に微動だにしていない、けれど頭の中で、自分自身との対話を活発におこなっている、ステップを踏み続けている。この姿を維持していきたい。

大学生の頃は、「ステップを止めてはならない」と言い聞かせてきたが、それは物理的な足のことを指していた。今は「自分自身との対話」であり、物理的なアクションの優先度を見直すと言う転換が起きている。その先に、アクションと内省のバランス感覚を動的平行を保つことが「ステップを踏み続ける」と言うことになるのかもしれない。

以上である。

やれるところから始めてみよう。自分自身の声を聞くのだ。いいね。

さようなら。