I had left my smartphone at home. I was already on the metro, when I noticed that.
Other necessary things such as a purse, medical questionnaire sheets, a bottle with water, glasses and a novel “Night Flight” which I’d been reading while were all in my bag. I put them last night, except for the smartphone. “I had left my smartphone at home.” の続きを読む
Рассольник
どうやら、牛肉は最初から煮汁をとるというので正解だったようだ。 “Рассольник” の続きを読む
スウィート・ホーム
私がこのシェアハウスに引っ越してきたのは去年の5月だった。だから結局、住んでいたのは1年半ほどだ。 “スウィート・ホーム” の続きを読む
自信の種類
シェアハウスで暮らすようになって、私は前よりも幸せだと感じる。 “自信の種類” の続きを読む
キンショーシータケ
実家から野菜と米が送られてきた。
「わさび菜
マヨネーズをつけて食べるとおいしいよ」 “キンショーシータケ” の続きを読む
2年目の記録
これでいいのかなと思いながら生きています。 “2年目の記録” の続きを読む
誰も自分のことをわかってくれないなら
この間きみは、「誰も自分のことをわかってくれない」と言っていたね。 “誰も自分のことをわかってくれないなら” の続きを読む
プレゼント
「なぜこれをくれたの?」
ああ、覚えている。 5年前に、確かに私はその本をあげたのだった。 “プレゼント” の続きを読む
いま考えうるすべての仕事について。
僕が書いた文章を2年分遡るように読んでいた。乏しい知識と経験から書かれた文章だったけれど、なかなか良いもんじゃないかと関心したりしていた。確かにつたない。けれど読者へのサービス精神を文体から感じたし、何よりも物事の捉え方の解像度がけっこう高い。それは、まさに会社勤めの僕に最も不足していることだと思う。
最近の僕は仕事というものにまったく意義を見出すことができていない。もちろんどんな業務であろうと自分自身の時間と労力を提供して対価をもらう。つきつめるとただそれだけの仕組みであり、僕は同意したいち労働者なわけなんだけれど、やはり僕は意義を見出そうとしてしまう。というよりも、意義がないと僕はまったく手を動かすことができなくなってしまう。僕は労働者としては扱いづらく、生産性も低い、簡単に言うとダメな社員ということだろう。誰も意義をかんじないと走らない使役馬に金を払おうとは思わない。
「労働とはそのように無情なものだ」と割り切ってしまうことは可能だろう。現に僕は悩んだ末にそう自分に言い聞かせてだましだまし目の前の業務をこなしてきた。しかし、いまその手がぴたりと止まってしまったのだ。進行しなくなった僕のプロジェクト。そのチームメイトへの罪悪感が募る。上司からの評価を恐れている。けど、そんなネガティブな感情だけではうんともすんともしない。ぼくのダーリンのコンセプトが改めて自分に問題定義をする。
「世の中には清算しないといけない物事がたくさんある。それは放置しないと固く深く沈んでいってしまう」
どうやら僕は、心に渦巻く複雑な感情を「清算」しないといけないところに立たされているようだ。
ことの発端は、小田原のワーケーションだった。東京で知り合ったコピーライターの友人に誘われて、彼女が賃貸している小田原の家に、彼女の同業者を集めてみんなで2日間ワーケーションをすることになったのだ。システムエンジニア・料理人・ライター・現代アーティスト、そして僕という異業種だらけの集まりになった。
小田原で振舞われた料理はどれもおいしかった。僕を除くすべての人が料理に精通しており、純粋に調理が好きな人がいれば、スパイスに特化した興味を持つ人がいれば、器にこだわりを持つものがいた。みんな何かしらのこだわりがあり、そこには独自の視点と、その人の価値観が存在している。僕はそのような独自の価値観を持つ人が「健やかであり、豊かな人」であると定義していたので、いったいどんな話ができるのだろうかと期待していた。
早い話、めちゃくちゃ失望してしまったのだ。僕は人間のこだわりから、その人特有の価値観を知ることを期待している。僕は彼らのこだわりを問い、深く掘り下げた。「クラフトコーラが好きだ」「飲む人にカウンセリングして唯一のコーラを作っている」面白い。当然僕はクラフトコーラを作るに至った経緯を問う。しかし、そこで語られるのは「市場性がある」とか「グロースの余地がある」とか、マーケティングに即した回答に落ち着いていく。確かに現代はクリエイティブ性だけでは食っていけない。価値創造型の職種にかぎらず、どこの業界においてもマーケティングの知識は必須だ。食っていけないからね。
けれども、問うても問うても、その人の人間性が現れないことに恐怖を覚えるようになってきた。一歩踏み込んで背景となる価値観を問うても、妙にはぐらかされる。核心には迫れない。僕は彼らに問うのをあきらめてしまった。きっと彼らは説明責任を背負って生きているのだ。何者でもない自分の、社会での立ち位置を理解してもらえるように・自分が社会に存在する価値を認めてもらえるように、社会での立ち位置の説明責任を違和感なく受け入れ、息をするのと同じように、説明を繰り返していたのだ。
たしかに、僕と彼らは初めて会った関係性であり、人となりを問うには時期尚早だったのかもしれない。もちろんそれも考えうる。しかし、そうであろうとも、名刺を渡すように社会的立ち位置を説明されるのは、僕を社会環境の中でしか見ていないということであり、それ以上の関係性は考えていないように捉えられた。それに加えて、彼らがおいしい食卓を囲み、ご飯を食べていても、おのおのの社会的説明を自然と行い、団らんとした雰囲気が生まれていくことに恐怖を覚えた。食卓を囲いながら、お互いの社会的位置づけを確認し、自分との関係を判断・決定する行為を繰り返して、共有された時間を楽しんでいる。そこには、人となりがほとんど伺えなった。ごはんを食べながら背筋が凍りついた。はじめて東京という街が恋しくなった。僕は逃げ去るように特急ロマンス号にのって東京の自分のいえに帰った。
この、仕事に結びついた圧倒的な違和感。嫌悪感・疎外感がきっかけとなり、僕は何のために働くのか?と自分自身に問わざるを得なくなった。はたして自分の時間・労力を資本家に差出し、対価を得るだけが仕事なのか。僕たちは今後もその狭い環境のなかで自分の市場性を高めることに努めて、説明責任を負い続けることになるのか。説明責任がコミュニケーションを侵食した世界で人間関係を構築していくしかないのか、という問いだ。
そしてそれは、誰かを救うという大義を背負って仕事をすること、かつ、その行為を通して、人間性を鮮やかに浮かび上がらせ、自分自身の人生を豊かにすることができるという僕の期待は正しかったのかという根本的な問いだ。
今日、僕はにっちもさっちもいかなくなって、プロジェクトのメンバーに心境を打ち明けた。自分のふがいなさによってプロジェクトが遅延していることの謝罪も含めて。たった30分間のZoomのミーティングではあったが、僕は救われたような気持ちになった。彼女は僕の混乱した状況を聞き、一切責めるわけでもなく(表面的ではなく精神的にも)、論理的打開策を検討するわけでもなく、ただ「楽しく仕事しよう」と言った。
”わたしも時々仕事に追われて、なにのために労働をしているかわからなくなる。けれど、私があなたと一緒にプロジェクトをしているのは、あなたの「救いたい」という想いに共感をしたから。そしてはやく実現したサービスを目にしたいからだ。たしかに今の業務はサービスを実現するための些末な業務ばかりかもしれない。けれど、根本的な目的はあなたがどうしてもこまっている人たちを「救いたい」からでしょう。私もたまに見失ってしまうことがあるけれど、いつでも本来の目的に立ち戻って、何のために働くかを考えてみよう。そしたら目の前の仕事も楽しめるはず”
これを書いていて涙が出そうになる。一番身近にはたらくパートナーが、僕の想い・それを通した人間性を認めてくれている。そして、それに期待してくれている。なんてありがたいことだろう。僕は彼女の答えに救われる想いがした。
たしかに、企業の最終的な目的は金を稼ぐことだ。その環境に属しているのだから金を稼ぐことを求められるのは当然だ。金を稼ぐにはマーケティングの知識が必用となる、市場性を正しく読み解くスキルも必須だ。そこで扱われる「人」は自然と「大衆」になる。政治があり法律があり金が流れる総体だ。僕たちは無味な大衆からいかに金をとるか・あるいは大衆としての企業から金を稼ぐかを求められる。大衆の規模がでかくなればなるほど(お隣さん→部活動員→区民→日本人→人類)個の人格というのは希薄になっていく。けど僕は、やっぱり一人の人間と取り結び、人間性を知り、彼を救うために働きたい。
僕の悩みというのは、人類・市場という対象の規模がでかくなるにつれて人間性が薄れていくなかで、いかに個の人間からボトムアップに思考ができるかという壁があり、未熟さから個と大衆を結びつけるほどのスキル・経験がなかったことから発しているのだと理解した。
ぼくのダーリンは「生きるために、書く」と提言している。それは文章を通して日常の生産を行い、健やかに生活をしてほしいという僕の想いが込められている。想いの対象は、20人ほどのメンバーであり、自分自身。さらにひろげるとダーリンを積極的に読んでくれている100人ほどの読者だ。メンバーはもちろん、読者の一定数は顔を思い浮かべることができるし、どんな性格なのかを僕は知っている。LINEで直接話しかけることができるし、悩みを聞くことができる。
ただし、僕が何かしらの影響を与えることができるのはたかだか100人程度のものだ。そしてダーリンを通して金を一銭も稼いでいない(そういう思惑でもあるんだけど)。いま会社が僕に出しているオーダーは「3年で10億円稼げるサービスを開発しろ」だ。対象の数は100人どころか数百万人になるだろう。そして一人一人からお金を払ってもらう仕組みを生み出す必要がある。そりゃあスキルも経験もない僕がいきなり数百万人の人の顔を想像できるか・金を稼げるかと言われて無理だよなあ。
ダーリンは、僕が与えられた仕事の難易度を客観的に教えてくれた。
もう一つ、ダーリンが僕に教えてくれたもの。それは「やっぱり俺はみんなに健やかに生活してほしい」と本気で想っているということだ。当時の僕の文章から伝わるサービス精神や物事の解釈というのは、やっぱり見てくれている「あなた」に向けられたものだ。大衆でも法人でもない。
長くなってしまったけれど、ダーリンという環境(過去の文章・書くという行為)によって、僕の違和感はかなり整理された。僕は未熟な人間だ。スキルだけではなく、人間性も褒められたものではない。必ずまた仕事に対して漠然とした不安を抱えるだろう。けど、根本的な問題というのはここに記した通りだ。いつでも立ち返ってこよう。楽しんで仕事をしよう。ね。
今日も読んでくれてありがとう。「生きるために、書けば」無駄な文章は存在しない。思考のわだちは時間を超えて君を救ってくれる。
白い夢
翌日、目が覚めたのは5時半前だった。右腕が痛い。両肩も痛い。ついでに腰も痛い。 “白い夢” の続きを読む